「仲
良シ?」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
奏でられていた音が止まる。残響が静まり静寂を取り戻した一室の中
で、レンはこれから言われるであろう罵倒に耐えようと身を固くしていた。
「……真剣にやってるのか?」
静かなバリトンボイス。怒鳴り声を一度も上げたことのなさそうな、冷
たさを保ったその声にレンは固めていた身を更に強張らせる。
「や、やってるよ……」
「そうか、ならなんで今の所を間違えたんだ?」
トントン、と楽譜の一点を指で指摘しながら男はレンに視線を向ける。
レンはその視線が苦手だった。真っ直ぐに自身を見つめて全てを見透か
してくるような、そんな視線が。
「真剣にやっていて、既に何度も指摘されながら、それでも間違えた。
レンはそう言ってるんだな?」
一語一句をレンに刻み付けるように彼はゆっくりと言葉を発し、次いで
ゆっくりと首を振った。
「なら、今日はもう休め。何回言っても無駄ならリンの曲を仕上げにか
かった方が時間を無駄にせずにすむ」
時間の無駄。
レンのマスターに当たる男はそう言うと、懐からタバコを取り出しなが
ら部屋を後にする。去り際レンの横を通っていったが全くの無言ですり抜け、部屋に残されたレンの耳に虚しく扉の閉まる音が木霊した。
数秒動くことも出来ず男から投げられた言葉が頭の中を駆け巡り、レン
は手元に残った楽譜を見つめる。男の手によって書き込まれた記号や注意点を赤丸されたその楽譜は、もう見ずとも暗譜している。そうであるにもかかわらず、
どうしても一箇所だけが上手く歌えずにいた。
「練習、足らないのかなぁ……」
小さな呟きを聞くのは自身のみ。溜息を吐いたレンは、顔を上げる事無
く部屋を後にしようとすると、不意に先ほど男が出て行った扉が開かれる。
「お。レン、お疲れ様」
「カイト兄……」
マスターが戻ってきたのか、と一瞬身を固くしたレンだったが、現れた
マフラー姿を見て脱力し、少しだけ顔を上げた。
「カイト兄はこれから?」
「あ~、いや、そうじゃないんだけどなんとなく入ってみただけ」
何となく、と言うカイトにレンは小首をかしげながらもそれ以上は問わ
ずにおき、そう、と曖昧に笑っておく。
「レンもアイス食べるか?」
入ってきたときには気付かなかったが、よくよく見ればカイトの手には
棒アイスが握られており、彼はソレをレンに向かって差し出している。
「カイト兄はホントにアイスが好きだよね」
苦笑を返しながら受け取り、封を切る。現れた練乳苺を咥え、立ってる
のも億劫になったレンはその場に腰を下ろした。
「行儀が良いとは言えないぞ?」
「立って食べるよりはいいと思うんだけど」
胡坐をかいてアイスを食べ始めたレンに今度はカイトが苦笑をしてみせ
るが、レンはそ知らぬ顔でその場を動く気配を見せない。互いに黙り、アイスを貪る姿は傍から見れば異様だが、レンもカイトも既に彼らの仲では当たり前の光
景なのでどちらも気にする事無く舌鼓を打っていた。
「なぁ、レン」
いち早く食べ終えたカイトは、棒を咥えながらレンに声をかける。声を
かけたものの、隣に腰を下ろして既にアイスの欠片も無い棒を転がしながらレンに視線を向けず、カイトは話をどう切り出したものか、と考えているようだっ
た。
「その、マスターのことなんだけど……レンは嫌いか?」
「……いきなりどうしたの?」
ついさっき怒られた、とも言い辛く、レンはカイトに視線を向けながら
作り笑いを向け、アイスから口を離す。
「いや、マスターって言葉がきついだろ?
だからリンやレンにはちょっと怖いんじゃないかな、って思ってな」
「……別に大丈夫だよ。マスターがきつくなるのはオレが失敗ばっかり
するからだし」
今しがたの事を思い出し、レンはカイトから視線を外して俯き、再びア
イスを口にする。甘過ぎるほどの味が口の中に広がり、苦味を帯びている心と対照的だ、と心中で呟いた。
「じゃあ、嫌いじゃなくても苦手か?」
「それ、あんまり変わってないと思うんだけど」
言葉を変えてきたカイトに返事をしながらも、レンは食べきったアイス
の棒を口から離す。
「苦手、なのかなぁ……。でも、マスターが言ってるのってホントのこ
とだし、やっぱりオレが悪いんだから仕方ないって思うんだけど……」
「じゃあ、マスターのこと好き?」
正反対の問い方に、レンの言葉がつまる。カイトはそんなレンに小さく
微笑むと彼の頭を軽く撫でて口を開いた。
「さっきマスターとすれ違ってな。ちょっと困ってたんだ。『どうした
んですか』って聞いたら、レンが怖がってて練習にならないって言ってたよ」
何も答えず、ただカイトに視線を向ければ、彼は微笑みを深めてレンを
背後から抱き締める。
「マスターも、ホントはレンにこうしたいんだ、って言ってたよ。だけ
ど、レンが怖がっちゃうから出来ないって言ってる」
「……別に、怖がってなんか無いし」
「でも、身体が固くなっちゃうんだろ?
だったら嫌われてるって思っちゃうよな?」
カイトの言葉に完全に沈黙していると、カイトは更にレンの体と自身を
密着させて顔を近づけた。
「マスターは、レンが頑張って練習してるのも知ってる。だけど、それ
が本番で生かせてないから悔しいんだってさ。自分のせいでレンが上手く歌えてないって」
さて、とカイトはレンから身体を離して立ち上がり、彼に向かって腕を
伸ばす。
「そんな状況にあるマスターを助けられるのは、誰でしょう?」
なぞなぞを出すようにアイスの棒を左右に振るカイトの手を掴んで立ち
上がると、レンは何も言わずに扉に向かって駆け出した。閉められた扉が邪魔だといわんばかりの勢いで乱暴に開き、左右を見渡せば扉の音に驚いて視線を向け
ているマスターと目が合った。廊下でタバコを吸っていたらしく、その手には携帯灰皿と根本まで灰になりかけたタバコが握られていた。
「マスターッ!!」
滅多に表情を変えないはずの男が目を丸くしているが、そんなものも気
にせず駆け寄り服の裾を掴む。
「オレ……、オレ、マスターのこと怖いなんて思ってないよっ!
マスターが怒るのも仕方ないって思ってるんだよ!
でも、怒ってないの? ちゃんと言ってくれないと、オレ、わかんないよっ」
まっすぐに男の目を見つめれば、それまで呆然としていた彼は不意に口
角を吊り上げてレンの頭に手を乗せてきた。
「カイトに何を言われたか知らんが、怒ってはいない。ただ、レンの本
気が見たいと思ってただけだ」
「オレの、本気……?」
頭に乗せられた手の大きさに知らず高鳴る鼓動を無理に抑えながらレン
は男の言葉を繰り返す。
「そう、お前の本気。いつも固くなって自分の部屋で出ている声とは違
う声で失敗ばっかりしてるお前じゃなくて、自然体で元気に歌うお前が見たいと思ってる」
くしゃくしゃと撫でる男の声には険が無く、レンは掴んでいた彼の裾を
離して今度は彼の身体に抱きついた。
「オレ、マスターのこと怖くないよ。全然怖くない。だけど、そ
の……」
その先を口に出来ず、レンは巻きつけた腕に力を込める。その姿に男は
小さく苦笑を漏らし、彼の身体を離してレンと同じ視線になるように膝を曲げた。
「言葉というのは不便だが、歌に言葉を乗せて聞き手に俺の言いたいこ
とを伝えるのがお前の仕事だ。だから、お前の言いたいことを聞いてお前の言葉を歌に変えるのは俺の仕事で、俺の義務だ。言いたいことは、言葉にしてみろ」
回りくどい言葉にレンも苦笑すると、小さく深呼吸して男に頭を下げ
る。
「今まで、ごめんなさいっ」
何秒か立ってから頭を上げれば柔らかな笑みを浮かべた男が目の前にお
り、再びレンの頭に手を置いてきた。
「よし。お前が本当に俺の事が怖くなくなったのかを確かめるために
も、もう一回だけさっきの歌をやってみるとしよう。もしそれで出来なければ、お前の言葉は嘘だったということだからな」
「そんなっ?!
オレ、ホントにマスターのこと怖くないって言ってるのにッ!」
不敵に笑う男に手を引かれ、レンは再び部屋に入る。口では失敗するか
もしれない、と言っておきながらその顔に不安の色は無く、未だに部屋の中で何処から取り出したのか分からないアイスを口にしているカイトに舌を出して楽譜
を開く。
「よし。もし失敗したらカイトも一緒に袋叩きにしてやるからな」
「そんな! なんで俺までなんですか、マスターっ」
「もしくは二人ともおやつ抜きだ」
「「そんなぁッ!!」」
悲痛な叫びも一笑に付されてメロディーが奏でられ、部屋の中に音が満
ちる。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
――二人はおやつを食べることが出来たのか――
――それはまた、別のお話――
――了――